2017-05-15

神を信じたり信じなかったりする日本人の曖昧さと血液型人間学の微妙な関係

記憶を喪失したとしか思えない”日本人の曖昧さ”



近頃、日本人について、つくづく考えています。その国々によって、歴史や民族が異なるのだから、どの国もユニークなのはあたりまえといえばあたりまえなのですが、それでも日本は、やはり他の国々とは質の異なる違いを感じざるを得ない、と思うことが、しばしばあるのです。だからと言って「どんなところが?」と問い詰められると、誰も明確に答えられないという、それがまた、日本を異質にしている不思議さでもあります。

そのせいでしょうか。日本人は、海外の国々からどのような見られているのかを、ことさら気にする傾向が強いように思うのです。自分たちも自分たちのことがよく分からないので、外からはどんな風に見えているのか、知りたがるのかもしれませんね。

血液型の研究に携わってきた中でも、それをよくよく思い知らされることがあります。
先日も某テレビ局の取材を受けたとき、ディレクターが尋ねます。
「海外(欧米)では研究されていないんでしょうかね?」
これには、西洋主義、科学信仰の匂いもプンプンするのですが、とにかくこの質問は、耳にタコが出来るほど訊かれてきたので、わたしもそこには、もはや感情も失せており
「日本が唯一この研究の先進国です」と、あっさり言うしかないのです。
そしてまた、批判的なご意見としては、こんなこともよく言われます。
「血液型ナンカを話題にするのは日本人だけ」

もちろんわたしは、心の中では思っています。「…日本がこの研究にいち早く気づき、ここまで深めたことに、もっと誇りを持って欲しいな」と。
日本の人々は、ああ、なぜに、こんなに自信がないのかしら?そんなことを相も変わらず思いながら、最近読んだ本を思い出しました。


『逝きし世の面影』渡辺京二著
これは江戸末期から明治にかけて日本を訪れた欧米諸国の人たちが、当時の日本と日本人という民族を、どれほど賛美していたか、ということがつらつらと書かれている本です。

身体の大きさの違いもあるのでしょうが、当時の日本は、かわいらしい家並みと風景に、可愛いらしい人々が、それはそれは楽しそうに暮らす、まるでおとぎの国のようだったと、彼らは感嘆しているのです。

わたしもそれを読みながら、「へえ、そうなんだ」と、まるで他人事のように感心したのですが、この実感の沸かなさぶりを考えると、日本は変わり果ててしまったのと同時に、重度の記憶喪失現象に陥っているのかもしれない、とも思い始めました。

そういえば、かつては”黄金の国ジパング”と呼ばれたこともあり、”神の国”と呼ばれたこともあったわけです。もちろん、できるなら今でもそう呼びたいところですが、今の我々日本人が、とうにそういう意識は薄れ、そんな呼び方をしてよろしいものかという、懸念というか、後ろめたささえあるものだから、「かつて」と言わざるを得ません。

その上、今となっては、なぜに何をもってして、”黄金の国”だったのか、”神の国”だったのか、言い伝えの根拠はまちまちで、断言するほどの勢いも無いわけです。だからと言って今更、黒船が…、敗戦が…、教育が…と、いろいろ理由を挙げたとしても、誰かのせいにするのはいかがなものか、とも思います。結局は、我々日本人自身が、どんな経緯にも責任をもたねばならないのです。

それで行き着くところ思うのは、とにかく日本人は、重度の「記憶喪失」現象を起こしていることを、認めることが先決のような気がするのです。日本人が重度の「記憶喪失」現象に陥っていると、半ば確信を持ったのは、とあるデータを閲覧したときです。それは「社会実情データ図録」というサイトで、本川裕さんという方が日本や世界のさまざまな統計データを収録、分析してくれているものです。ここで目にとまったのは「神の存在、死後の世界を信じるか?」というものです。

さて、日本人はどうかというと、神の存在も、死後の世界も、「信じる」という回答が少ないとあります。そしてもうひとつ、日本人の特徴は、「わからない」と回答する率が非常に多いという事です。この、「わからない」「どちらともいえない」という回答の多さは、日本人特有の傾向なのだそうで、それは他の設問においても、常に多いらしいのです。

本川氏は、この日本人の曖昧さを、『和』や『中庸』の精神だろうと分析しており、わたしもそれには納得するのですが、別の側面から見ると、正直なところホントに「わからない」のではないかとも感じているのです。それはまさに、「記憶喪失」者の回答そのものでもあるからです。

そう言っておきながら、記憶喪失者に会ったことは無いので、自分がもしそうなったらと想像するだけですが、記憶が封印された箇所について訊かれても、そうであるような無いような…というように、モヤモヤと曖昧で「わからない(=覚えていない)」と回答するしかなのではないかと…、そう考えたからです。

それでその、モヤモヤした中で、「黄金の国?」「神の国?」と、(?)マークを付けながらも、薄っすらではあっても、あながち単なるホラではないかも?という思いが、日本人の心の奥底に漂っているのかもしれない、という気もしているのです。これに関連して「神、宗教心」について本川氏がコラムを別途掲載しています。「日本人の宗教観は奇妙か、それとも他国が奇妙なのか」

本川氏の解説を参考にしながらざっくり考えると、日本人は、「宗教的な心は大切だけれど、現存の教義は今ひとつ不確かで、信心するに至らない」ということなのかもしれません。少し言い換えると、日本人は、信心するべき”何か”、があるような気はしているのだけれど、今のところそれが何かはよく分からない、と考えているのだという感じでしょうか。まあだから、何度も言うのはしつこいですが、重度の「記憶喪失」現象に陥っているからではないかと。

ここまで書いてきて、血液型の話から、ずいぶん遠のいた感があるかもしれないですが、実はこの、日本人の曖昧さ加減(=記憶喪失現象)が、「血液型人間学」への扱われ方にも、たいへんよく似た状況を起こしてきたのです。

血液型と人間性には、”何か”、ただならぬ関係があるような気もするけれど、それが何なのか、明確に証明するお墨付きも無いし、今のところ曖昧にしておくのが無難、というような感じです。

記憶喪失”現象”という言い方をしているのは、内容によっては、実際に記憶を喪失していることもあると思うのですが、白黒つけようもなく分からないので記憶喪失のフリをしている、という意味合いも含んでいます。

そして血液型人間学に関して言えば、最初に研究した古川竹二さんまで遡ればおよそ100年ですが、能見正比古が事実現象を公開し、一般の人々に知られるようになって46年。これだけ人々に広まっていながら、およそ半世紀もの間、この曖昧さに対してとことん追求しようとする向きは一向に訪れず、宙ぶらりんのまま今に至っているのです。

それに、先代の能見俊賢にしても、わたしにしても、こうした日本人的性質にむやみに抵抗しないよう、ゆるやかに進めてきた、というところもあります。タラレバ話をするなら、B型の能見正比古がもっと長く生きていたなら、私(AB)や能見俊賢(A)のように”ゆるやかに”とはならなかったかもしれません。そもそも研究した張本人でありますし、あのB型的な勢いで邁進し続けたなら、今とは状況が変わっていたのかもしれません。

とはいえ、”時のカミ”がいるのだとしたら、タラレバを言うのは無意味なことで、それは起こるべきときに起こるのですから、全ては流れのまま進んできた、ということなのでしょう。

話は日本人が記憶を喪失した「神」に戻ります。ここ数年、スピリチュアルなことに若い人たちが強い関心を示すようになっているようです。私の住処の近くに在る有名な神社など、休日ともなれば中高年者と同じくらい若いカップルたちも多くて、正月並みの行列になるほどの賑わいぶりなのです。だからといって、そういう人々が信心深く、神がかっている、という風にはもちろん見えなくて、誰もが、お祭りに来ているようなはしゃぎようと気楽さなのです。

まあ、深読みするなら、こうした流行は、それがたとえ無意識であっても、もしかしたら、失った記憶を思い出そうとする、日本人の集合意識から発生している現象なのかもしれません。とにかく、こうして日本人のことを考え始めるときりがないし、とどのつまり何が言いたいのか、分からなくなってしまうことが多いのです。

さてこの、およそ意味不明な文章を締めくくるのに、10年前なら、「いつか、真実が分かる日がくるのでしょうか?」とでも書いたかもしれません。ところが今は、これまでとちょっと違う気がしています。真実が分かる日が、何やら刻々と、近づいている気配もしているからです。

「神の存在」について、あるいは「血液型人間学」についても、ある日、真実が分かる(思い出す)その時がやってきたら、日本人総記憶喪失現象からやっと抜け出せる、ということになるのでしょうか。