能見正比古の「血液型人間学」が統計であるかないかということに、どれくらい意味を持たせるかというところの真実



能見正比古という人物について、若い人のほとんどは知らないのでしょう。
ところが、60代以上の人々が集まる会合などに出席すると、「本を読んだ」「講演を聞いた」という人が、必ず何人かはいらっしゃるのです。
そんなとき、当時(40年前)、老若男女問わず、どれだけ日本の人々に強い印象を与えていたかというのを再確認します。

彼はもちろんタレントではないのですから、有名人的な存在としてテレビでもてはやされたとか、そういうもんではありません。
彼の本を読んで強く共感を得た人々がとにかくたくさん居たわけです。
能見の分析や理論は、画期的でもあり、新鮮でもあり、驚きでもあったのですが、それはたぶん、ここ数年流行りの最新脳科学とか、最新ナントカとか、そういうのとも全然違ったと思うし、書きながら何か似たような現象がないかと探しながら、そういえば、前々回の記事で「記憶喪失現象」について書いたのですが、日本の人々が記憶の一部を取り戻したような感じなのかもしれません。
「そうそう、確かにそうだ!」と、能見の的を得た分析に、モヤモヤしていたところの霧が晴れた、みたいな感動ではなかったかと思うのです。

まあところが、既に世の流れは思考の画一化に向かっており、科学や哲学の統一化というか、規格化というか、世界の知識は欧米諸国を中心に、そういう偏狭な方向に進み始めていたのです。
それで、能見の分析に純粋に共鳴する人たちも多くいたのですが、中には統計だから、ちゃんとデータを取っているから信用できる、と、科学性というところを信頼して支持する人たちも結構いた模様です。

そして能見もまた、東大工学部卒ということでもあったので、科学性であるとか、統計手法であるとかは、嫌というほど学んでもいたし、本人自身が、そういう客観的な物差しでもって証明しないと気が済まないという性分でもあったので、彼はデータを集めに集めまくったし、何千何万というデータと睨めっこして取り組んだのは間違いありませんでした。
そんなことで、血液型人間学は統計学である、というのが一人歩きした感も無きにしも非ずと言えます。
けれど、ちょっと考えれば分かるでしょうが、統計学だけで、人間の行動が細かに分析できるはずは、ありません。

それでその後、能見の血液型人間学理論が高まるにつれ、批判的、反論的な意見が、特に学者らの中、とりわけ心理学者らを中心に現れるようになりました。
そして、能見正比古のデータから意味のあるものは見つけられない、彼の統計はデタラメである、というような意見を彼らは発信し始めました。
中には、そんなデータはとっていないし、嘘八百を述べている、、などと風聴する輩まで現れて(今もいるのですが)、それにはさすがに我々も呆れ果て、「日本全国民を、そんなホラで騙せる肝っ玉があるなら、親父はとっくに政治家にでもなってるよ」などと、能見俊賢は苦笑いしたのでした。

すると先日、たまたまこんなサイトを見つけました。
http://transact.seesaa.net/article/109878065.html
このサイトは、「能見正比古は統計なんかとっていない」とタイトルにあります。

私はタイトルだけ見たとき、「へえ、そうなんだ、どういうこと?」なんて、何だか他人事のように素朴な疑問が生まれたので、ちょっと読み進めてみたのですが、こちらのサイト運営者は、能見の本を読んだけど、性格を分析するのに統計データをとったとはとても思えない、というような説明が書かれていたのでした。

それはあま、そうでしょう。
そもそも、、彼の本は論文ではないですし、そういう審査を受けるべく書いたものではないのですから、判定しようにもできないだろうとも思います。
本の場合、それが一般書であれば尚のこと、著者の結論的見解を述べるのが普通だし、その過程を細かに示すことはページ量的にも不可能ですし、またその必要もないわけです。
ただし、熟読していけば、それについての説明も一応ちゃんとしてあるのですけど、それで能見は、疑問に思われるならいつでも問い合わせて下さい、とも念をおしているのですが、賛同した人が訪ねてきたことはたくさんあっても、反論する人が訪ねてきたことは滅多にない、というのが実のところでもあったのです。

それで、話を中心に戻して言うと、何だか、統計とかデータとかいうところに、やたらこだわる人々がおられるのだと改めて感じたので、じゃあ、能見は何を持ってして、統計的検証をしたとしたのかを、ここに改めて説明しておこうかなと、思った次第です。

まず最初に言っておくべきことは、能見は本に書いてある通りの数だけ、データを取りました。むしろ控え目に書いているぐらいです。
これについてはウソも改ざんもないですし、そのあまりに馬鹿げた憶測に対して反論したことはないのですが、能見親子の名誉のためにも書いておきます。

そして次に、血液型と人間性の関係を云々言うにあたり、順を追って説明していくと、まずは、血液型と人間との間に、何らかの関係性があるのか無いのかを、どんなデータからでも探し出してみようということになります。
能見が注目したのは、業界、職業分野や、ある特殊な集団と血液型分布の関係です。
何らかの偏りが見られ、有意性があれば、それは統計的に何らかの関係性があるとして良いわけです。
それで能見は、100件以上の分野に有意性のある偏りを見つけました。
本来、何らかの関係性だけを示すのであれば、数件でも見つかれば良かったぐらいなんですが、確かな真実を求めようとした彼は、それを100以上にも増やしてしまいまいた。
おそらく、面白いくらい見つかるので、勢い余って突き進んだのではないか?とも思われますが。
それに中には、その時代背景に影響されている分野もあります。
社会状況は常に変化しているので、そこで活動する人間の様態も変化するのが当然です。その有意性は一時的なものであることもあり得るため、そうした流動性を考慮しても、100も見つければ、まあ充分だろう、ということだったのです。

この段階で、血液型と人間の活動には、何らかの関係性あるというのを明確に証明したわけです。

それで次の課題は何かというと、では、具体的にどんな関係性があるのか?といのを精査してゆかねばなりません。
これには、単に分野ごとの血液型分布の偏りだけ見ても大したことは言えません。
歴史作家にA型が多いからと言って、A型の、何のどんな部分がそれに関係するのかは言うことができません。
それで能見は、各血液型の性質を詳しく探るためにアンケートを取ることにしました。

さてしかし、このアンケートがやっかいです。
あなたは歴史が好きですか?
と訊かれて、確かにA型の人は歴史好きが多いですが、それだけじゃ、あまりに芸がなさ過ぎるし、それに、自分で申告する好き嫌いが、どれだけ社会活動に反映されてるかとなると、かなり疑問が残ります。
もっと、四方八方から攻めて吟味する必要があるわけです。
すると、様々な質問が生じてきます。(以下は実際に行った設問ではなく、私が書きながら思いついたものです。)
過去の記憶をよく覚えているか?
過去への郷愁は?
資料をコツコツ集めるのが苦にならないか?
緻密な思考性は?
想像力は?
などなど。

”歴史”というテーマにまつわるだけでも、数限りなく浮かんできます。
そして、質問の仕方には、いくつかの工夫もほどこされました。
アンケートは自己申告なので、事実が正しく回答されない恐れもあるため、なるべく、回答者が善悪などの固定観念に惑わされないような設問に置き換えて、自分のことを少しでも客観的に捉えて回答できるようにするわけです。それは大抵、事実を述べるしかないようなものや、行動のクセを探るような質問です。(アンケートについては、近く全内容をホームページなどで公開する予定です。)

まあ、そんな感じで、ある一つのデータを元にしただけでも、質問はどんどん広がっていくわけですが、その質問は、四型に対して同時に広がりを見せるのであって、たとえば、”緻密”というキーワードを探るための設問に対して、意外な血液型の傾向が、ふと現れたりすることもあるのです。
「おや?これは何だろう」ということで、更に追求する幅が広がるという感じです。
また、せっかくだから、一回のアンケートで出来るだけたくさんの設問に回答して頂きたいということで、回答する人が楽しんで、飽きずにやれるよう、ときどき、特に意味もないユニークな設問なんかも入れておきます。
たとえば、「幽霊を信じる?」とか。
すると、そういうのに限って、期待していなかった偏りが見られたりすることもあるのです。
この、楽しんで回答できるという要素は、非常に大切なことだと思います。
それがよくあるような、”性格診断”のアンケートのように堅苦しいものだと、回答者は「これで自分が評価される」のような、ある種の緊張を感じながら回答することが多いのですが、能見の作成したアンケートは何やら面白くて楽しいので、リラックスして行えたのです。
また、これは個人の診断ではなく、”血液型”の調査であるということで、自分もこの研究に協力し貢献しているという、回答者のポジティブな意識を促進したので、非常に積極的に、そして誠実に答えて下さったのでした。(私は、こうしたアンケートの取り方ひとつにおいても、能見正比古の特異な才覚を感じざるを得ないのです。)

というわけで、非常に信頼度と内容の濃いアンケート集計に成功したわけです。
アンケートに対する有意差検定というのは、ひとつひとつの設問に対して行うことになりますが、本でそれ紹介するときには、有意差がある無いに関わらず、本の話題の流れに合致する、ある程度の偏りや分かり易いものを選ぶことになります。
まあそうなると、紹介できるものはほんの一部で限られてきます。
すると、その他のデータは、全て能見のメモと頭の中に保存されたことになります。

そして能見はまた、人間活動の観察と取材も同時に行い続けていました。
自分自身の周りの人間関係はもちろんでしょうが、知人から知人を紹介してもらい、またその知人....。彼は人と会うことには、何のためらいもなく、図々しいくらいに訪ねて行っては、何でも聞いてきたのです。
能見の本は、芸能人や著名人の話が多くて何だかイヤラシイ、みたいな印象を持つ人もいたらしいのですが、能見が放送作家という仕事をしていた関係で、そうした職業の知人友人が多かったという事情もありました。
それにその方が、読む人も顔が浮かんでイメージしやすいだろうとも考えたのです。
また、そういう人々は特殊な世界だから、特殊な傾向になるのであって、一般論に当てはまらないのでは?と考える人もおられるのですが、それは実際のところ、そうではないのです。

何かの特性や本質を探ろうとするときには、抜きん出た特異な部分を見つけ出すことが早道なのです。
集合体の中で慣らされ平均化された8割の部分からは、あまり多くの真実は、もはや見いだせなくなってしまうからなのです。それより、その平均枠からはみ出した数パーセントの中に、物事の本質が見え隠れすることが多くなります。(この点については、先端物理学などの学者さんたちも言及しております。)
ですので、特殊な環境に置かれた人たちや、特殊な分野で活躍する人たちを観察することは、案外意味があるということになります。
ただ、ここが少々難しいのは、そうした特殊な部分というのは、データが少ないので統計的な処理が叶わなくなりがちです。
なので、ある血液型のある傾向を示唆する補完データとして、能見のメモに残るわけです。
加えて、幼児たちの観察記録は、能見の分析に大きな貢献をしたのは間違いないでしょう。子供たちは、大人に比べたら遥かに素直に、素の自分を表現しているのですから。

こうして、能見のメモと能見の頭の中には、膨大なデータが記録されていくことになります。
そして後は、能見正比古コンピューターが、その網の目のように広がったデータを、処理していったというわけです。
能見は、一つの特徴を見定めるのに、100ぐらいの質問やデータが関わっていると本にも書いています。

これらが能見正比古が行ったデータ収集やアンケート集計、観察、分析の概略となります。
このことから、結論的に何が言えるのかというと、能見が行った分析というのは、統計的な処理、データ結果が土台になっていたり、あるいは分析内容を示唆する大きな支えになっていたのは確かです。だからといって彼の分析や理論について、逆に統計的検証をしようとしても、おそらくあまり正しい結果は得られないでしょう。収集した大量のデータを、どのように整理し、どのように性格行動に関連付けたか、また、その表現方法についても、能見の頭脳と感性で行われたものである、ということなのです。
実際、統計とはそういうものです。
統計の数値を眺めて、どう解釈しどう分析するかは、それを行う人次第なのです。
そこにはその人の頭脳と感性が、大きく貢献することになります。

能見正比古の研究調査の最終段階は、彼の分析を、人々に問う作業でした。
それにはできるだけ、多くの人々の目に留まるような形にする必要があります。
本やメディアで…すると、多くの読者たちからの反響があった、というわけです。
そうして今度は読者たちからフィードバックを受取、更に内容を煮詰めていく、という作業が、幾度か繰り返された、ということになります。

以上が、能見が行った一連の、研究調査、分析作業でした。
私はとりあえず、ここで事実を述べましたが、これを読んで、能見が提唱してきた「血液型人間学」を統計に基づいたものであると捉えるか、そうではないと捉えるかは、受け取る側の、その人によるのかもしれません。
私は、人々の多種多様な価値観や、考え方を尊重したいと思いますが、よく調べられていない偽事実の情報が蔓延することには、異を唱える必要があります。
それで私は時おり思うのです。
残念ながら反論する方々のただひとりも、直接問い合わせて下さったことは、過去47年来ないのですが、能見に訊いてくれれば、私に訊いてくれれば、同じ反論や反証をするにしても、だいぶ良質な内容になるのではないかと思うわけです。
まあ、そんなの大きなお世話、とも言われそうですが、それにしても、あの当時の、コンピューターなんて無い時代に、よくもまあ、3千枚、5千枚、、、というアンケート用紙と睨めっこして、データ整理をしたものだと、私は能見正比古(B型)の熱意と労力に、ひたすら驚愕します。
今のコンピューター時代に能見正比古が生きていたとしたら、どれだけ喜んだことだろうかと、しみじみ思うのであります。