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Terima Kashi ! インドネシア2017年(おまけのプロローグ)

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インドネシアの適当さ加減が心地良いかも
(写真はカリマンタン島のサンボジャ自然保護地区に居るオラウータン。スタッフのお兄さんたちが名前を呼ぶと、「しょうがないな、サービスするか」という感じでノソノソと出来てきてくれます。とってもファニーな方たちです!)

インドネシアの1か月の旅が終わります。
1か月のあいだ、ひとりも日本人に会わずにインドネシアの人々の中に埋もれていると、自分が何人でも、そんなのはどうでもいい気になってきます。
そんな気分の中で、インドネシアを振り返り、そしてまた、日本を思いながらの感想です。
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日本人の公共の場におけるマナーの整い方は見事なものだと思います。
それはある状況では賞賛に値するものですが、しかしある状況では無意味で馬鹿げたものだと映ることもあります。

たとえば休日のエスカレーターで、意味もなく1列に長い列を作り、歩く人のためのスペースをガランと空けているのを見たりすると、この無駄な空間は誰の為のものなんだろう?
...そもそも、急ぐ人は階段を上れ!と思っている私にとっては不思議としか言いようのない光景です。

あるいは最近、格安飛行機に乗る際に車椅子の人がデッキの階段を這って歩かされたと、航空会社にクレームを出し話題になったと聞きました。
日本のメディアや一般人の多くは、この航空会社を責め立てたというのですが、これもまた、私には不思議でならないことです。
どうか、それが起こった状況を想像してみて下さい。
周りの人々は、車椅子の彼が這ってデッキを上がるのをただ眺めていたのでしょうか?すぐにかけつけて彼を助ける人は居なかったのでしょうか?
もしも、周囲の人々がこの不運な状況を積極的に支援する雰囲気がそこにあったら、彼は航空会社の人手不足による不備に怒るより、むしろ人の温かさに感激する絶好の機会になったのではないでしょうか。
結局のところ、これは誰の役割、これはここの責任、というように、あまりにキッチリとし過ぎることが、人の優しさや温かさを封じ込めているのではなかろうかと、私は考えてしまうのです。

そんな日本の最近の風潮に、日頃からホトホト呆れていて、何とも言いがたい窮屈さを感じていたわけですが、インドネシアに滞在しながら、この国の適当さ加減が、なかなか心地良く感じるという場面が多々ありました。

(ジャカルタ・スカルノハッタ国際空港/このデッカイ…

【科学ニュース】日本人のゲノムを解析したらどこにもない日本人特有の特徴が見 つかった!

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ゲノムでも解った日本の特異性はいったい何を示すのか?
「日本の特異性について最近よく考えるのです」ということを、いくつかの記事で書いてきました。
(ラベル「日本人」

歴史も地理もひどく苦手な私は、生まれた国でありながら日本についてはむしろ無知無学と言ってもいいくらいなんですが、「血液型人間学」ということに関わったおかげで、”日本の人々”については考えさせられる機会がしばしばあります。
ただ、私が日本について考える動機というのは、他と少々異なっているかもしれません。

・なぜ日本で血液型の研究が早くから始まったのだろう?
・なぜ日本中にこんなに血液型が浸透したのだろう?
・日本の血液型分布(4:3:2:1)が特別なのには意味があるのだろうか?
・日本の人々は血液型の事実を受け入れてながら認めないのはなぜだろう?
・・・etc
という具合に、血液型がらみになるからです。

この研究は、新種の分野ということもあり、またそれを、能見正比古が”フィールドワーキング”という信念でもって大衆に広めた、というのがあり、実にさまざまな扱いが為されてきて、個々には、実に心温まる扱われ方もあるのですが、まあ、日本社会全体...という観点からは、「ひどい扱われ方だなあ…」というのが多いわけです。しかも困ったことに、「こんなもの要らない」と相手にされないなら、それはそれで仕方ないですが、それでいて、興味シンシンのところもあり、あちこちから変な茶々が入ったりするので、何だかんだ、厄介なのです。
それで、その度に、つくづく思うわけです。
「日本の人たちは、いったい、どうしたいんだろう?」

それに私は、海外でもこの研究を伝えていますので、日本と他国での、反応の違いというか、受入方の違いのようなものも、肌で感じたりしてきました。
それから、私がそう意識しなくても、国内外の取材人らに「日本人はなぜ血液型が好きなんですか」と度々聞かれたりするので、結局、考えざるを得なかったりもするのです。

そんな背景があった上に、最近の世界の変わりようの中で、相変わらず、ノホホンとしている日本の人々を眺めながら、私のレーダーがやけに”日本人”に向いていたわけですが、そこへもってきて、興味深いニュースが飛び込んできたので、「おや?」ということで記録しておこうと思います。

日本人のゲノムは西洋はもちろん他のアジアとも異なる…

自分の意思を表明しないという日本人的特性には、果たしてどんな意味があるの だろう

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Facebookの「いいね!」で分かったことがある
私は、Facebookというものを、日本に上陸した2010年の当初から使っています。
ずい分と、インターネット通なのかとと思われるかもしれないのですが、きっかけは、単に、その頃から啓蒙活動を始めていたインドネシアとのコンタクトをスムーズにするためでした。

当初、実名登録が必須のこのSNSが、日本に受け入れられるかどうかというところを問われていたようですが、取り敢えずそれなりに広がりは見せたようです。 いずれにしても、私は、そういうことにはあまり不安はなかったのですけどね。 どの道、ネットを利用する以上そのリスクは覚悟の上のはずだし、実名を明かす事に、何故それほど警戒するのか、私には不思議なくらいのことなのです。 かといって、私にとってこのツールはインドネシアの活動の様子がリアルタイムで見られる、というのが目的なわけだから、それ以上には、まったく使いこなしていなかったわけです。
ただ、ここ数年、いろいろ社会情勢の変化を感じるなかで、このツールの使い道を改めて考えてみたのです。 まず思ったのは、Facebookを、日本の人々はどんなふうに使いこなしているのだろう?果たして日本において、Facebookはどう機能しているのだろう? などというような事です。
たとえば、「日本人と外国人のFacebookの使い方の違い」という記事を見かけたことがありますし、「FacebookよりTwitterの方を日本人は好む。特に若い人は、、」というような記事もあったと記憶しています。
それで私は、Facebookへの自分の投稿にくれる「いいね!」の付き具合を眺めながら、いろいろと、考えを巡らせてみたのでした。
まあ、そもそも知り合いの数はごく少ないので、敢えて数字を披露するほどのことはないのですが、少ないながらも、私の投稿に「いいね!」が沢山くれるケースというのは… ・キレイな景色の写真を上げた時 ・美味しそうな食べ物の写真を上げた時 などです。

また、私の活動を報告するような投稿に対しても、その次ぐらいに多いように思います。 私の活動を”応援しているよ”という、友人たちからの、温かいエールの印です。
そして、最も少ないのは ・私が自分の意見を主張した時 ・政治や社会情勢に言及したとき ・何らかの、メッセージ性のある呼びかけをしたとき などで…

血液型にまつわる海外事情

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血液型に興味シンシンなのは日本人だけじゃないのです。
巷では、血液型について関心を持つのは日本だけだという噂がときどき流れるので、その辺について記載しておこうと思います。 それ以前に、日本人が海外の反応を気にし過ぎるきらいがあるということも、理解しておいた方がいいかもしれません。それについては、以前のページで触れています。
「血液型人間学」を能見正比古が、日本の人々に伝え始めたのは1971年ですが、その活動から10年ほど経った頃、他国からも取材や問い合わせがあるようになりました。 どんな国からどんな取材があったか、詳細を記載するのは少々難なので、とりあえず記憶にある限りをリストアップしてみます。(年代や順序は無関係) (各国メディアの取材) ・ドイツ~科学ニュース関連の雑誌など(数回) ・フランス~雑誌とテレビ(数回) ・米国~雑誌とテレビ(数回) ・ロシア~テレビ(数回) ・台湾~雑誌関係(日本発行女性誌の台湾版があるので多数) ・ブラジル~テレビ ・英国~雑誌 ・韓国~さまざまなメディア(活発な活動を行ったため多数)
欧米諸国の記事においては今のところ”日本の文化”として取り上げられることがほとんどですが、中で印象に残っているのは、ドイツの取材スタッフたちは個人的な強い関心を持つ人が多かったということです。フランスでは、古くから研究しているグループもあるようです。それらについては下の方で補足しますが、次に、能見親子の本が翻訳されている国を紹介します。 ・韓国(多数) ・米国(You are Your Blood Type)※能見の本を元にライターが新たに執筆。 ・インドネシア ・台湾 ・タイ ・中国
また、ネット普及のおかげで、さまざまな国の個人的な問い合わせがあります。どんな国から問合せがあったのか、記憶にある国を紹介します。 米国/フィンランド/オーストラリア/フランス/ブラジル/ルーマニア/メキシコ/韓国/中国/フィリピン/インドネシア/その他
ということで、こうしてあげたリストを眺めただけでも、他の国の人々が決して関心を持たない、というわけではないことが、何となく分かるかと思います。 私が問合せや海外からの訪問者、あるいは啓蒙している中で感じてきたところでは、欧米諸国ではドイツ人やフランス人の関心が特に高いように思いました。 北欧フィンランドの友人に聞いたのですが、ヨーロッパ諸国の…

神を信じたり信じなかったりする日本人の曖昧さと血液型人間学の微妙な関係

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記憶を喪失したとしか思えない”日本人の曖昧さ”
近頃、日本人について、つくづく考えています。
その国々によって、歴史や民族が異なるのだから、どの国もユニークなのはあたりまえと言えばあたりまえなのですが、それでも日本は、やはり他の国々とは質の異なる違いを、感じざるを得ない、と思うことがしばしばあるのです。
だからと言って「どんなところが?」と問い詰められると、誰も明確に答えられないという、それがまた、日本を異質にしている不思議さでもあります。

そのせいでしょうか。
日本人は、海外の国々からどのような見られているのかを、ことさら気にする傾向が強いように思うのです。
自分たちも自分たちのことがよく分からないので、外からはどんな風に見えているのか、知りたがるのかもしれません。

血液型の研究に携わってきた中でも、それをよくよく思い知らされることがあります。
先日も某テレビ局の取材を受けたとき、ディレクターが尋ねます。
「海外(欧米)では研究されていないんでしょうかね?」
これには、西洋主義、科学信仰の匂いもチラホラするのですが、とにかくこの質問は、耳にタコが出来るほど訊かれてきたので、私もそこには、もはや感情も失せており
「日本が唯一この研究の先進国です」と、あっさり言うしかないのです。
そしてまた、批判的なご意見としては、こんなこともよく言われます。
「血液型ナンカを話題にするのは日本人だけ」

もちろん私は、心の中では思っています。
…日本がこの研究にいち早く気づき、ここまで深めたことに、もっと誇りを持って欲しいのに、と。
日本の人々は、ああ、なぜに、こんなに自信がないのかしら?
そんなことを相も変わらず思いながら、最近読んだ本を思い出しました。

『逝きし世の面影』渡辺京二著
これは江戸末期から明治にかけて日本を訪れた欧米諸国の人たちが、当時の日本と日本人という民族を、どれほど賛美していたか、ということがつらつらと書かれている本です。

身体の大きさの違いもあるのでしょうが、当時の日本は、かわいらしい家並みと風景に、可愛いらしい人々が、それはそれは楽しそうに暮らす、まるでおとぎの国のようだったと、彼らは感嘆しているのです。

私もそれを読みながら、「へえ、そうなんだ」と、まるで他人事のように感心したのですが、この実感の沸かなさぶりを考えると、日本は変わり果ててしまったのと同…

血液型に対する人々の反応

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ABO血液型についての日本の皆さんの反応の仕方には、いくつかのパターンがあるようです。
①「やっぱり血液型って関係あるよね」と、素直に面白がってくれる人々。
②「関係あるのかもしれないけど、血液型で決めつけられるのは嫌なんだよね」という人々。
③「迷信でしょ。科学的に証明されていないでしょ」という、科学信仰の強い人々。
④そもそもそういう事に興味が無い人々。

おそらく、①と②で7割を占めるのだと思われます。 そして②の人々が案外多いのかもしれないな、と、最近感じています。 それは分かるけど、あんまり気にしたくないんだよね、という雰囲気でしょうか。
たとえば、血液型の特徴を少し話すと、「あぁ、やっぱりそうなんでしょう」と言って、そこにはどこか、ちょっとした閉塞感が伴う雰囲気を感じます。
血液型は変えられない
と考えるので、どこか自分のオリジリティーや可能性を狭められたような気になるのでしょうね。
しかし、そうではないのだと理解して欲しいのです。 確かに血液型は特異な状況がなければ変わりません。(臓器移植など) しかし、血液型の遺伝子というのはあくまでも素材的な要素でしかないのです。それをどのように使いこなすかはあなた次第なのです。 私たちはよく料理にたとえて説明しますが、同じ材料でもいろんな料理ができるように、あるいは、同じ料理を作っても美味しくなったり不味くなったりするように。 貴方がどのように自分を料理にするかでさまざまな個性が出来上がるのです。 美味しい料理にしたければ、素材の性質をよく知っていた方がいいに決まっています。
そして更には、素材の事を知り尽くすことで、全く新しい料理を作れることさえあります。 日本京都のお寺に伝わる精進料理などは、野菜素材だけで肉の食感やボリュームたっぷりの見事な食膳を創り出しますね。
私たちの思考や行動、個性も、工夫次第で素材の性質を超えた能力を発揮することが可能なのです。 また、そうした無限の可能性に対応出来るだけの柔軟さが、それぞれの血液型遺伝子には備わっています。
いえこれは、血液型だけのことを言っているのではありません。 私たち人間は現在のところ、30〜40%ほどしか持てる能力を使っていないと言われています。 残りは全て、今後の進化の可能性なのです。 私たち人類は、今現在も進化の過程にある事を忘れないで欲しいのです。
昔、地球は平らだと信…

日本で真実が伝わらない理由

たまたま見かけ、気になった記事がありました 江原啓之さんのインタビューです。 江原さんは、今や誰もが知っている日本を代表するスピリチュアリストです。 その名前が日本中に知れ渡ったのは、テレビで一時、盛んに放映していたスピリチュアル番組に出演していたからだと思います。
江原さんの番組の内容のほとんどは、芸能人の先祖霊や守護霊や過去世などを霊視して、彼ら彼女らの問題を当ててみたりアドバイスしたりするものだったよう。 その記事のインタビューで江原さんは 「みなさんに、スピリチュアルとはどういうものか、そして見えないものを理解してもらう必要があったから」というようなことを言っていました。
霊の世界を信じている人も居るが、信じていない人も居る。 それは自分で感じることだから良い悪いではない。 そしてまた、別の人々もいる。
何となく感じる気がするし、信じたい気もするけど、その証しがないから決められない、という人たち。 実は、そういう人たちが大多数ではないでしょうか。
だから、まずはその証を見せることも必要なのだ。 江原さんも、そう思ったのでしょう。 番組側と江原さんの考えが一致して、それは始まったのだと思います。…少なくも制作の段階では。 そしてみごとに反響が。 視聴者は、なるほどと感心し、驚き、ちょっと感動し、涙する場面もあったりして。
すると視聴率は、もっと上がりました。
けれどそこから先は、江原さんと番組側の意図が、少しずつズレ始めたのではないかと思います。 番組側は、視聴率を追いながら、ただひたすら同じことを繰り返す。 視聴者が飽きるまで。 そしてそろそろ、もういいだろうという頃、これもお決まりの、どこからともなく批判の声が聞こえ始める。 ――彼の力は本物なのか? ――どうせ金儲けだ、商売だろ? 江原さんは、自分が伝えたい本当の意図とズレていることに気付いてきたのでしょう。 視聴率も下降を見せ始め、そしていろんな理由を付け加えて、やがて番組は終了します。
終わった後、番組側は、「この企画は大成功だった!」「世の中にスピリチュアルブームを起こした!」、そう満足し、功績になり、彼らにとっては過去となります。 しかしその主役となった江原さんの方はどうてましょう?
もどかしく、後味が悪いはず。 「でも少なくも、霊性の世界を少しでもお見せすることができたんだ」と、納得するより他にないかも。

では、視聴者はどう…